最后修订时间:2026年10月18日
Chujia Kuang(邝楚嘉)
独立研究者、中国広東省掲陽
連絡先(Corresponding author):Chujia Kuang、独立研究者、中国広東省掲陽。Correspondence: kuangchujia.com/contact
要旨
紀元前一〇四年、漢の朝廷は暦を改めた。その改暦について伝わる記録は、儀礼の面では薄く、算の面では厚い。残っているのは『漢書』律暦志の「統母」と題された一组の定数である。ここでいう「母」とは、以後のすべての数がそこから生まれる根本の数のことだ。このうち二つが、のちの成否を決める。一つはひと月の長さを定め、一つは何年の中にいくつの閏月を置くかを定める。本稿はこの二つを読み、続いて、この二つに何が起こったかの記録を読む。暦は百余年のあいだ動き、やがて史書は、朔が暦より先に来たこと、暦が朔の日と書いた日に月が見えなかったことを書き始める。元和二年(八五年)、朝廷は暦が天から丸一日ずれたことを認めた。その証拠として持ち出されたのは新しい観測ではなく、古い記録だった。史書にすでに書かれていた日食を、暦がそれを朔の日に置いたかどうかで分類したのである。本稿はその監査を追う。結論は狭い。太初の定数は内部で噛み合っており、当時得られた最良のものであった。同時に、作りからして粗かった。そしてそのことは、記録自身が記録の言葉で語っている。
キーワード: 太初暦;三統暦;朔策;閏周;十九年七閏;漢書律暦志;後漢書律暦志;賈逵;日食;中国暦法
はじめに
紀元前一〇四年、漢の朝廷は暦を改めた。史書が書き留めたのは儀礼と徳運のことである。新しい正月、新しい服色、新しい元号。どう計算したかは書いていない。
それは別の場所に残っている。表である。『漢書』律暦志は、その定数を「統母」という語の下に並べる。統母とは体系の母である。暦のなかの数は、すべてここから生まれる。七つの数が一つの段落にまとめて示され、そのうち二つが、暦の当たり外れを決める。
第一はひと月の長さ。第二は閏周、すなわち何年の中にいくつの余分な月を挿すかである。
どちらも算によって決められた。測量だけによってではない。そしてどちらも、わずかに違っていた。本稿が扱うのは、その「わずか」がどれほどで、どうやって見つかったかである。
見つけ方が面白い。哲学者が見つけたのではない。役人が二つの一覧を突き合わせて見つけた。一つは暦が「月が暗い」と書いた日の一覧、もう一つは史書が「日が食えた」と書いた日の一覧である。日食は朔にしか起こらない。だから記録された日食の一つ一つが、暦の朔を無料で試す試験になる。そして漢の史書は、二百年にわたって日食を書き留めていた。
1. 太初の改暦が換えたのは、年ではなく、物差しだった
秦と漢の初めは『顓頊暦』を用い、歳首を十月に置いた。漢はこれを受け継ぎ、改めず、武帝の代まで使い続けた。
太初元年、改めた。最初の仕事は歳首を十月から正月へ戻すことだった。これは本系列の前稿『「顓頊暦」と秦・漢初の暦法の考古学的証拠』で述べたので、繰り返さない。
第二の仕事は、あまり注意されないが、以下の議論にとってはもっと重い。この改暦は歳首を動かしただけではない。一日を何分割するかという、その刻みそのものを定義し直したのである。
漢の暦家は小数を使わない。分数を使う。一日をいくつに切るか、その数を「日法」と呼んだ。日法が決まれば、ひと月も一年も、その刻みのどこかに着地しなければならない。ひと月を二九・五三日と書くことはできない。八一分の一の整数倍としてしか書けない。
太初の改暦は、日法を八十一に定めた。
八十一は行き当たりばったりの数ではない。『漢書』律暦志はその由来を、表の最初の一行で明かしている。
日法八十一。元始黄鐘初九自乘,一龠之数,得日法。
八十一は九の二乗である。九は『易』の陽爻の数。標準の律管である黄鐘は一龠を容れ、一龠は八十一分。つまりこの分母は、天からではなく、楽律と卦爻から出ている。
ここが本稿全体の要である。暦は天に合わねばならない。しかし暦家の手にある物差しは、まず数術の物差しだった。一世紀後に現れる誤差の根は、ここにある。
2. 『太初暦』と『三統暦』——一組の数、二つの名
まず混乱を一つほどいておく。太初年間に改められた暦を『太初暦』と呼ぶ。『漢書』に収められた完全な算法を『三統暦』と呼ぶ。二つの名、一組の数である。
『後漢書』律暦志は、振り返って最初の年についてさえ後の名を使う。
自太初元年始用『三統暦』,施行百有余年,暦稍後天,朔先於暦,朔或在晦,月或朔見。
「太初元年より『三統暦』を用い始め」——後代の書き手は、その体系が後につけた名で、全体を呼んだ。この名は劉歆に結びつく。前漢末に暦を整備した劉歆は、その数に「三統」の理屈を着せた。天統・地統・人統、黒統・白統・赤統を、夏・殷・周の三代に当てる。数は変わっていない。語彙が変わっただけである。
だから漢代の資料で「太初」と「三統」が並んでいても、二つの暦ではない。違いは名にあり、算にはない。
3. 朔策——ひと月は二十九日と八十一分の四十三
『漢書』律暦志の統母は、要る数を一度に並べる。
日法八十一。……月法二千三百九十二。……閏法十九,因為章歳。……章月二百三十五。……統法千五百三十九。……周天五十六万二千一百二十。……朔望之会百三十五。
七つの定数、それぞれに役目がある。月の長さに直接かかわるのは最初の二つ。日法八十一、月法二千三百九十二である。
日法は一日を八十一に切る。月法はひと月がその何個分かをいう。二千三百九十二個を八十一で割れば、二十九日と、八十一のうち四十三が余る。これは現代の復元ではない。漢代の読み手がそう読んだ。ひと月は二十九日半ば少し。その半日の端数を、八十一分の四十三と書く。
なぜもっと細かくしないのか。日法がすでに八十一と決まっているからである。分母が先に決まり、刻みが決まり、月はその最も近い刻みに合わせられる。
八十一分の四十三という端数は、漢代暦法の目印になり、体系の通称にもなった。八十一分法である。暦家はこの分母を誇りにした。『漢書』はそれを表の最初に置き、黄鐘から来る道理をわざわざ説明している。
4. 閏周——十九年に七つの閏月
第二の定数は閏周である。
太陰暦の十二か月は、太陽年より短い。短い分が溜まると、二、三年でひと月分になる。そこで閏月を挿す。何年の中にいくつ挿すかは、太陰太陽暦の大関節である。挿しすぎれば季節が月より先へ走り、挿さなすぎれば季節が遅れる。
漢の答えは十九年に七閏だった。統母の二項目がそれをいう。閏法十九、すなわち章歳十九。章月二百三十五。
二百三十五がどこから来るかは、漢の注が書いている。十九年、每年十二か月で二百二十八か月。これに閏月七つを加えて二百三十五。一章は十九年・二百三十五か月、その中に七つの閏がある。これが十九年七閏である。
この周期の理屈は、十九の太陽年が二百三十五の朔望月にほぼ等しい、というところにある。ほぼ等しいのであって、等しいのではない。漢代の暦家はそれを知っていた。だからこの周期を「章」と呼んだ。一章で区切りがつき、また開く。一章のうちで朔旦と冬至は同じ日に戻る。章の終わりに残る端数は消えない。次の章へ繰り越される。
『漢書』はさらに「朔望之会百三十五」を挙げ、さらに会月六千三百四十五を挙げる。まさにこの繰り越しを扱うためである。食は朔望に起こる。朔望がずれれば、予報する食もずれる。章・統・元と周期を積み上げたのは、端数を吸い尽くそうとしたからだ。
吸い尽くせなかった。それが次節の話である。
5. 誤差はいつ姿を現したか
太初暦は百余年動いた。やがて記録は、ずれた、と言い出す。
『後漢書』律暦志はまず総括して言う。
自太初元年始用『三統暦』,施行百有余年,暦稍後天,朔先於暦,朔或在晦,月或朔見。
「暦稍く天に後る」とは、天はもうその位置に着いているのに、暦がまだ着いていないこと。「朔、暦に先だつ」とは、暦がまだ前の月と言っているのに、天はもう月の暗い日になっていること。そして最も平明な一句——暦が朔と書いた日に、月が見えないことがあり、暦が月の暗い日と言った日に、細い月が掛かっていることがあった。
これは分や秒の話ではない。人が見て分かる話である。
章帝の元和二年には、開きがもっと大きくなっていた。
至元和二年,『太初』失天益遠,日、月宿度相覚浸多,而候者皆知冬至之日日在斗二十一度,未至牽牛五度,而以為牽牛中星,後天四分日之三,晦朔弦望差天一日,宿差五度。
冬至の日、太陽は斗宿二十一度にあるべきなのに、暦はまだ牽牛の中星としていた。晦朔弦望はまる一日ずれ、宿度は五度ずれた。「候者皆知る」——一人の賢い人が見つけたのではなく、実際に見ていた者たちの共通の知識になっていた。
そこで章帝は詔を下した。その一句が病根を正確に指す。
史官用太初鄧平術,有餘分一,在三百年之域,行度轉差,浸以謬錯。
「余分一有り」——この体系には割り切れない端数が一つある。端数は小さい。しかし「三百年の域」のうちに、運行の度が次第にずれ、誤りが浸み込んでくる。詔はさらに讖緯の一句を引く。「三百年斗暦改憲」——三百年で斗の暦は改まる。この句は予言として読まれ、事後の注釈として働く。
改暦は四分暦を採った。しかし議論は終わらなかった。編訢と李梵は、元首の十一月を先ず大の月とすべきだと主張した。弦望を決まった日に合わせたいからである。反対した者たちが指したのは、閏周そのものの綻びだった。
而訢、梵猶以為元首十一月當先大,欲以合耦弦望,命有常日,而十九歳不得七閏,晦朔失実。
「十九歳にして七閏を得ず」——十九年七閏という周期が、もう閉じない。周期が破れれば晦朔も破れる。争いは章帝の裁定で決着した。天元始起の月を常に小の月とする、と。
6. 日食に突き合わせる
改暦論争のなかで最も硬い資料は、賈逵の統計である。
賈逵は『太初暦』が算り出した朔を、史書に記された日食に突き合わせた。日食は朔にしか起こらない。だから記録された日食は、そのまま朔策の試験になる。彼は三期に分けて数えた。
以『太初暦』考漢元尽太初元年日食二十三事,其十七得朔,四得晦,二得二日;……以『太初暦』考太初元年尽更始二年二十四事,十得晦;……以『太初暦』考建武元年尽永元元年二十三事,五得朔,十八得晦。
第一期、漢の元年から太初元年まで、二十三件のうち十七件が朔に当たった。第二期、太初元年から更始二年まで、二十四件のうち十件が晦に落ちた。第三期、建武元年から永元元年まで、二十三件のうち朔に当たったのはわずか五件、十八件が晦に落ちた。
三期を並べれば、傾向は疑いようがない。同じ暦、同じ物差しで、初めは合い、後になると合わなくなる。
この方法自体に一言いる。賈逵は「何刻ずれたか」を問うていない。「朔の日に落ちたかどうか」だけを問うた。それが漢代に実際にできた試験だった。分単位で精しい記録はないが、「某年某月某日、日食あり」という一行なら二百年分ある。その一行を暦に突き合わせれば、合うか合わないか、ごまかしは効かない。
ついでに言えば、賈逵は新たに立てた四分暦でも同じ日食を数え、その結果を別に記している。改暦論争の実際のやり方はこれである。どちらの理屈が美しいかではなく、どちらが多く当たるかを数えた。
7. なぜ八十一分法はずれたか
根に戻る。
八十一分法の欠点は、八十一という数が間違っていることではない。八十一が粗すぎることである。一日を八十一に切れば、一切れはかなりの長さになる。ひと月はそのどれかに着地しなければならず、最も近い切れ目が、天の月そのものであるとは限らない。
現在の朔望月の値は、二つの刻みのあいだにある。八十一分法は近いほうを採り、二十九日と八十一分の四十三とした。刻み一つ分は小さく見える。しかしひと月の小さな誤差は一年で十二になり、一年に十二の小さな誤差が百五十年積もれば、暦は丸一日動く。『後漢書』が「朔、暦に先だつ」「朔、或いは晦に在り」と書いたのは、まさにこれである。
閏周も同じ理屈で破れる。十九年七閏は、十九の太陽年と二百三十五の朔望月を等しいと置く。近いのであって、等しくはない。差は年ごとに積もり、記録の言葉を借りれば「十九歳にして七閏を得ず」、周期は閉じなくなる。
二つのずれは方向が違う。月の長さのずれは朔望の日を徐々に動かす。閏周のずれは季節と月を徐々に引き離す。二つが同時にずれれば、年・月・日が三つとも食い違う。
これを改めた四分暦は、日法を四にし、ひと月を二十九日と九百四十分の四百九十九とした。分母が大きくなれば刻みが細かくなり、着地点は近づく。しかしこれは分数で月を追う道を替えてはいない。この道は唐代に一行が不等間隔の二次差算法を導入するまで続いた。
8. どこまでが確かめられ、どこからが推論か
いつものように両面から。
確かめられるもの。統母の七つの定数は『漢書』律暦志に白黒つけて書いてある。日法八十一、月法二千三百九十二、閏法十九、章月二百三十五、統法千五百三十九、周天五十六万二千一百二十、朔望之会百三十五。この七つは互いに噛み合っており、後から挿し込まれたものではない。改暦の年、詔の理由、編訢・李梵の争い、賈逵の三期の統計も、『後漢書』律暦志に記されており、一句ずつ突き合わせられる。
確かめられないもの。太初の改暦のときに使われた観測の記録である。落下閎や鄧平が何を測り、何回測り、どれだけ誤ったか、史書は数字を残していない。分かっているのは結果だけである。彼らが八十一を選び、十九年七閏を選び、あの分数を選んだ、ということ。なぜその数でなければならなかったのか、『漢書』自身が与える黄鐘の説明以外に、手がかりはない。
【一説】分母八十一を黄鐘の律数から取ったというのは、数術の内部での自己正当化であって、天文上の理由ではない。暦家はまず数術のなかで美しい数を見つけ、次に暦をそれに合わせさせた。この読みは統母の並びを説明するが、当の本人たちがその順で考えたという直接の証拠はない。
もう一层、区別しておきたい。本稿が「ずれた」というとき、それは今日の測定を基準にしている。太初年間の人々はそう思っていない。彼らは新しい暦が『顓頊暦』よりはるかに良いと思っていた。事実そうだった。ずれは百五十年の後に見えてくる。後の誤差を過去に投影して、当時の人が間違えたというのは、公正な読みではない。
本文についての注記
これは一般向けの解説であり、独自の研究を主張するものではない。引用した暦法上の事実は、伝世文献と出土資料に拠っている。この日本語版は、中国語原文と同一の文章を別の言語で出したものである。著者名は邝楚嘉、Chujia Kuang。筆名は嘉言一得(Jiayan Yide)。
議論の対象そのものが語である場合、中国語の術語は原字のまま残した。
声明
資金。 本研究は外部資金を受けていない。
利益相反。 著者に利益相反はない。
データの利用可能性。 本研究で新たなデータの作成・解析は行っていない。
言語。 中国語原文は本記録の同梱ファイルとして保存されている。
参考文献
[1] 史記 [Records of the Grand Historian]. 漢.
[2] 漢書 [Book of Han]. 漢.
[3] 後漢書 [Book of the Later Han]. 南朝宋.
[4] 資治通鑑 [Comprehensive Mirror for Aid in Government]. 宋.
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中国語版:《太初历》《三统历》:朔策与闰周的误差 —— 本稿の中国語原文。
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作者:嘉言一得(邝楚嘉)|独立研究者,致力于可核验的原始文献与历法数据归档。
Author: Chujia Kuang (邝楚嘉), pen name Jiayan Yide (嘉言一得) — independent researcher devoted to archiving verifiable primary sources and calendar data.
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